種から苗をつくります。


by 太郎さん(太郎ちゃん)
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我が母校「赤平高校」の後輩よ、頑張れ!


 朝、4:00まえに赤平市のホームページを見ると、すでに町が明るく見れます。いつでもふるさとがみれますよ。みなさまはごぞんじですか。岡山県とはずいぶん違いますね。毎日、学校へゆくのが楽しみですか。わたくしは住友中学校の卒業生です。住友炭鉱で育ちました。日本が戦争に負けた昭和20年に夕張炭鉱から、赤平住友炭鉱にゆきました。やがて朝鮮戦争がはじまりました。炭鉱は連日、ストライキで放送塔は、、、革命歌が大音響でながれていました。ロツクアウトで山の施設には立ち入り禁止が出されていました。わたくしたち悪童は、犬のごとく、、、どこにでもはいりました。まさにてんごくでした。怪我や事故も起こしました。トロツコで遊びました。山深く入り、フキ、うど、よめなや、福寿草などを採取しました。小学生の5年生頃までは生きることで大変な時代でした。悪童でした!しかし、6年生のときに最後の参観日に父は初めて学校へゆきました。いつもは謝ることばかりでしたのに「この子は遣ればできる!」といわれたそうです。悪の頂点で君臨していたのに、、、父は、嬉かつたのでしょう。その様子を見てから、私の生活は360度変化しだしました。
 みなさんも、どこかでその時があるのです。住友中学へと進んで、藤田先生に1年のとき学びました。とても恐怖の先生と聞いていました.悪がきでしたので、この恐怖に負けじと勉強をしました。社会の先生でしたのでわたくしは社会ばかり勉強をしました。しかし、先生は社会以外の勉強もしなさい!といわれました。先生の部屋に行くと、優等生が大勢居ました。これはなんだ!と驚きました。私に、この世界を見せたのです。高校さえも考えれない暮らしの自分に、先生は刺激を、衝撃を与えたのです。みんな大学をめざす秀才でしたし、炭鉱の職員(職制)のこどもたちでした。喧嘩と暴力がつよくてもあかん!と、先生はさとらせたのでしょう。私は、仲間にも悪をきんししました。ゆうことを聞かずにあばれるものは呼びつけて殴りつけました。自分はそのご、、、赤平高校をでるまで毎日8~10時間は、裏部屋で密かに勉強をつづけました。高校では、ついよそ道にはいりました。応援団の暴力的な態度に憤慨して、生徒会の副会長、生徒会長になりました。暴力事件で解散される応援団を身請けして再建し、おうえんだんちょうもしました。国立をめざしていましたが、父がたおれて、、、。自活して大学へ行くしかなくなり、働きつつも生活の基盤を作り、暇暇に勉強をしてゆくことにしました。集団就職がまだあるじだいでした。
 昭和35年、朝5時すぎ、、、気温は零下25度いかの冷え込み、吹雪のなか、住友の元町から歩いて駅に向かいました。駅には赤く燃えるストーブがありました。石炭はこの日は隗炭のようで火力がずいぶんつよかつたですよ。釧路を夕方出たマりモ急行寝台にのりこみました。まだくらかつたですよ。
 ふるさとを捨てたのでなく、この炭鉱の事態の解決には日本の政治を変えなければいけない!その信念で、覚悟を決めて汽車に乗りました。父母、おじいさん、弟とのわかれでした。
 いつの日にか、大学生活、アルバイト生活、東京での波乱の人生。岡山での超波乱の人生を通じて、参考になればお話にゆきましょう。みなさまが修学旅行で、来てくださいましたらかんげいします。つよく生き抜く信念と、汗を流す事、辛抱と忍耐。たくさんのの経験をかたりあえます。
 後輩の皆様は、これからの人生は自分で決めれます。頑張るだけです。最後まで成功は出ません、永遠の課題です!努力を楽しむ人生にしてください。ご健勝を祈念しています。がんばれ!
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by urashima77 | 2006-07-01 05:13